片づけとは死への準備である

 ある種センセーショナルなタイトルに期待した方には申し訳ないが、単に私が片づけをしたくない理由を雑多にまとめた文章が以下に続く。

 

 結論を先取りする。めんどくさい。片づけをしたほうが一般的によいとされていることは字面の上では知っている。しかしそんな気持ちを削ぐほどに、私は自分の論理に反抗できずにいる。私の論理が完膚なきまでに反駁されることを私は望んでいる(ほんとか?)。

 

 「なんで片づけできないの。」と聞かれた時の私の定型文は以下だ。

「昨日私は片づけをしなかった。不都合なことは特になかったし、いつも通りの一日だった。今日の私の部屋は厳密には昨日の部屋とは同じではないが、その差は十分無視できるはずだ。よって私は今日も部屋の掃除をしない。それによる不都合はないと期待できるからだ。」

 この論理を環境問題に適応するとかなりの批判を受けるだろうが、今問題なのは「私の部屋」である。別に知人に迷惑をかけているわけでもないし、次世代の人間が不利益を被る道理があるわけでもない。完全に私個人の問題である。私が問題ないと判断したことに関して他人が横からとやかく言う意味が分からない。ここで多くの人は(多分あきれて)黙る。

 

 次によくある反論は以下の構造のものが多い(と私は思っている)。

「片づけをすること、換言すると部屋がきれいなほうがあなたにとって何かしらプラスに働く(ので片づけをすることはいいことである、片づけすべきだ)。」

 分かる。気持ちとして言いたいことはよく分かる。しかしいくつかの事柄を私は検討したい。まず「部屋がきれい」がどういうことか定量的に説明してほしい。私の部屋のエントロピーを測って、「この数値以下であるように部屋の状態を保ちなさい」なら分かる。しかし部屋がきれい、汚いなんて基準は人それぞれなので、ただ「"あなたにとって"私の部屋が汚い」だと単に価値観の押し付けになりはしまいか、と思える。私よりも部屋が汚い人はおそらくたくさんいるだろうし、そういった人に言わせれば私の部屋は「きれい」だろう。私も自分があまり掃除をしない割には自分の部屋がきれいだと思っている(これは言い訳)。

 次。「プラスになる」がどういうことかよく分からない。もちろん人によってこの部分は様々だが、「きれい・きたない」の対立でも見たように、何がいいことで何が悪いことなのかはっきりと断定できるものが私たちの周りにはどの程度あるかちょっと思いを馳せてみてほしい。もしも定言的に「片づけがよい」と言えるなら、私は喜んで掃除をする。しかしそうでないなら、ここにも価値観の押し付けが見え隠れしてないか。

 また、例えば「プラスになる」の例としては、「気分がよくなる」、「未来が明るくなる」、「幸せになる」などをよく見かけるが(これ以外に説得力があるものがあればぜひご教示願いたい)、字面だけなら完全に新興宗教のそれに思えてしまう。なお私は宗教の類としてはファンダメンタルなものしか持ち合わせていないので(いずれ書くかも)、こういった宗教に入信するつもりはない。なんならいい気分も取り立てて求めてないし、明るい未来も他人が押し付ける幸せにも、幸せにならなくちゃなんていう気疲れする言説にも乗る気はない。いや、生きるの向いてないかなってたまに不安になるけどそれはまた別の機会に。

 

 話を戻す。タイトルに触れよう。例えば今「死ぬ前にやりのこしたことは何か。」と聞かれればおそらく私は「遺書を印刷し目立つ場所に置かなかったことと、部屋を片付けなかったこと」と答えるだろう。余談だが遺書の文面自体は自分のパソコンに既に入っている。上記二つぐらいしか取り立ててやり残した感があるものは今のところない。もちろんお金があればもっと旅行したいし、時間があればひたすら本を読み数学をしてお絵かきをして過ごしたいし、叶うなら私以外だれも手に入れられないものを手に入れてから死にたい。しかし今死ぬならどうしようもない。というか死ぬ段にそんなことを言っても正しく後の祭りである。あくまで個人的にはあまり後を濁さずに死ぬことができるならば潔く死ぬと思う。というか死ねるならさっさと死んでる。閑話休題。長々と書いたが、「片づけをしてしまうと死ぬときの未練が一つ減るなぁ」ということである。それは、私の気持ちとしては避けたい。というか片づけをしないことが私のささいな生きていくことの理由になりつつある。「片づけをしろ」というのはつまり、私の生存理由を一つ奪うことになりかねない言動である。

 

 もう少し書く。私は別に片づけをしないと言ってるわけではない。自分が必要な分だけ私は自分の部屋を片付ける。私が困らないように。ごみ袋の中身がいっぱいになったら(いやいや)ごみを捨てに行くし、床が書類でしきつめられ書類を捌ききれなくなれば、それらに手を付ける(だろう)。ほこりが私の目につくようになれば掃除機をかける(と思う)し、汚れが目に留まれば何かしら手を施す(はず)。そうだ、掃除という仕事に締め切りがないことと、終わりがないことも、掃除をよりいっそう扱いづらくしている要因である。タスクとして処理しづらい。優先順位もさして高いと思えない。結果私が基準(完遂の条件と期限)を設定するのだが、その結果生まれたのが冒頭で陳述した内容である。掃除とはいったい何なのか。

 

 話が一周したので一度筆をおく。

 片づけがめんどくさすぎて真面目に理屈をこねくりまわしてしまった人間って感じだ。

 余談だが先日他人の家にお邪魔したがまじでむちゃくちゃきれいでその人のことをとても尊敬するようになった。嫌味など一切なく。私にはとてもできない所業に思えてならない。