片づけとは死への準備である

 ある種センセーショナルなタイトルに期待した方には申し訳ないが、単に私が片づけをしたくない理由を雑多にまとめた文章が以下に続く。

 

 結論を先取りする。めんどくさい。片づけをしたほうが一般的によいとされていることは字面の上では知っている。しかしそんな気持ちを削ぐほどに、私は自分の論理に反抗できずにいる。私の論理が完膚なきまでに反駁されることを私は望んでいる(ほんとか?)。

 

 「なんで片づけできないの。」と聞かれた時の私の定型文は以下だ。

「昨日私は片づけをしなかった。不都合なことは特になかったし、いつも通りの一日だった。今日の私の部屋は厳密には昨日の部屋とは同じではないが、その差は十分無視できるはずだ。よって私は今日も部屋の掃除をしない。それによる不都合はないと期待できるからだ。」

 この論理を環境問題に適応するとかなりの批判を受けるだろうが、今問題なのは「私の部屋」である。別に知人に迷惑をかけているわけでもないし、次世代の人間が不利益を被る道理があるわけでもない。完全に私個人の問題である。私が問題ないと判断したことに関して他人が横からとやかく言う意味が分からない。ここで多くの人は(多分あきれて)黙る。

 

 次によくある反論は以下の構造のものが多い(と私は思っている)。

「片づけをすること、換言すると部屋がきれいなほうがあなたにとって何かしらプラスに働く(ので片づけをすることはいいことである、片づけすべきだ)。」

 分かる。気持ちとして言いたいことはよく分かる。しかしいくつかの事柄を私は検討したい。まず「部屋がきれい」がどういうことか定量的に説明してほしい。私の部屋のエントロピーを測って、「この数値以下であるように部屋の状態を保ちなさい」なら分かる。しかし部屋がきれい、汚いなんて基準は人それぞれなので、ただ「"あなたにとって"私の部屋が汚い」だと単に価値観の押し付けになりはしまいか、と思える。私よりも部屋が汚い人はおそらくたくさんいるだろうし、そういった人に言わせれば私の部屋は「きれい」だろう。私も自分があまり掃除をしない割には自分の部屋がきれいだと思っている(これは言い訳)。

 次。「プラスになる」がどういうことかよく分からない。もちろん人によってこの部分は様々だが、「きれい・きたない」の対立でも見たように、何がいいことで何が悪いことなのかはっきりと断定できるものが私たちの周りにはどの程度あるかちょっと思いを馳せてみてほしい。もしも定言的に「片づけがよい」と言えるなら、私は喜んで掃除をする。しかしそうでないなら、ここにも価値観の押し付けが見え隠れしてないか。

 また、例えば「プラスになる」の例としては、「気分がよくなる」、「未来が明るくなる」、「幸せになる」などをよく見かけるが(これ以外に説得力があるものがあればぜひご教示願いたい)、字面だけなら完全に新興宗教のそれに思えてしまう。なお私は宗教の類としてはファンダメンタルなものしか持ち合わせていないので(いずれ書くかも)、こういった宗教に入信するつもりはない。なんならいい気分も取り立てて求めてないし、明るい未来も他人が押し付ける幸せにも、幸せにならなくちゃなんていう気疲れする言説にも乗る気はない。いや、生きるの向いてないかなってたまに不安になるけどそれはまた別の機会に。

 

 話を戻す。タイトルに触れよう。例えば今「死ぬ前にやりのこしたことは何か。」と聞かれればおそらく私は「遺書を印刷し目立つ場所に置かなかったことと、部屋を片付けなかったこと」と答えるだろう。余談だが遺書の文面自体は自分のパソコンに既に入っている。上記二つぐらいしか取り立ててやり残した感があるものは今のところない。もちろんお金があればもっと旅行したいし、時間があればひたすら本を読み数学をしてお絵かきをして過ごしたいし、叶うなら私以外だれも手に入れられないものを手に入れてから死にたい。しかし今死ぬならどうしようもない。というか死ぬ段にそんなことを言っても正しく後の祭りである。あくまで個人的にはあまり後を濁さずに死ぬことができるならば潔く死ぬと思う。というか死ねるならさっさと死んでる。閑話休題。長々と書いたが、「片づけをしてしまうと死ぬときの未練が一つ減るなぁ」ということである。それは、私の気持ちとしては避けたい。というか片づけをしないことが私のささいな生きていくことの理由になりつつある。「片づけをしろ」というのはつまり、私の生存理由を一つ奪うことになりかねない言動である。

 

 もう少し書く。私は別に片づけをしないと言ってるわけではない。自分が必要な分だけ私は自分の部屋を片付ける。私が困らないように。ごみ袋の中身がいっぱいになったら(いやいや)ごみを捨てに行くし、床が書類でしきつめられ書類を捌ききれなくなれば、それらに手を付ける(だろう)。ほこりが私の目につくようになれば掃除機をかける(と思う)し、汚れが目に留まれば何かしら手を施す(はず)。そうだ、掃除という仕事に締め切りがないことと、終わりがないことも、掃除をよりいっそう扱いづらくしている要因である。タスクとして処理しづらい。優先順位もさして高いと思えない。結果私が基準(完遂の条件と期限)を設定するのだが、その結果生まれたのが冒頭で陳述した内容である。掃除とはいったい何なのか。

 

 話が一周したので一度筆をおく。

 片づけがめんどくさすぎて真面目に理屈をこねくりまわしてしまった人間って感じだ。

 余談だが先日他人の家にお邪魔したがまじでむちゃくちゃきれいでその人のことをとても尊敬するようになった。嫌味など一切なく。私にはとてもできない所業に思えてならない。

インド滞在 Ⅱ

 Ⅱ.ムンバイに関して

 

 このあたりから記憶があいまいにつき前後関係に自信がない。

 

 デリーからムンバイまでは飛行機で約三時間。たしか非常口の関係で私の席の机が不安定であり、早起きのため眠かったので、ほぼ3時間寝ていた。ムンバイ空港で入国関係の手続きをしたかどうか定かではない。空港内のプリペイドタクシーで事前に支払いを済ませ、知人がいる大学に一時間弱かけて向かう。大学門にて知人と約半年ぶりの再開を済ませ、キャンパスの奥へと進む。知人によると私の通う大学で一番大きいキャンパスよりも広いらしい。「ほとんど森だけどね。」高い木が道路を挟んで生い茂り、牛(と知人によるとブル)がキャンパス内を我が物顔で闊歩する。ムンバイはデリーより暑くなく、湿っぽくないと思ったが、よく雨が降っていた。夏の後が雨季らしい。Tシャツにジーパン(半パン)とサンダルがだいたいの学生の服装。

 ひとまず事前に予約したいただいていた大学内のゲストルームへ。ゲストルームすごい。ちょーきれい。新聞も毎日三種類届くっぽい(記念に持って帰った)。Twitterに載せた一番高いお部屋がこちら、4000円ぐらい。惜しむべくはお部屋に計算用紙とドライヤーがなかったことぐらい。翌日チェックアウトする時、ドライヤーがなかったことを記入するととても興味深そうにアンケート用紙を眺められた。荷物を部屋に置いて軽食を食べに行く。料理の名前は覚えてない。丸く焼いた生地を円筒をつぶした形に折りたたんだやつとパ二プリの親戚みたいなやつ。辛くない。その後一度知人と別れ、ホテルの部屋へ戻る。再び会った知人に知人の実家で預かったものを渡し、洗濯物を洗濯してくれるおじさんに預け、学生寮の知人の部屋に案内される。洗濯おじさんがいる建物の近くでは祭りの前祝(?)をする学生が大きな音を出していた。太鼓をたたいておうおう言ってた。かなり大きな祭りらしい。人であふれかえるので外にでないほうがいいと言われた。確か知人の部屋で少し時間をつぶし、寮内の食堂で夕食。バイキング形式でナン、カレー約三種類、ごはん、野菜などが並ぶ。この食堂はだいたいこれらが出され、あとはデザートで少しメニューに変化を出しているようだった。ご飯を食べたらホテルへ帰って寝た。

 

 朝起きる時間を誤った(ちょっと寝坊した)ためホテルの朝食の余り物をいただく。ちゃんとしたやつ食べたかった…絶対美味しいって感じが片づけてる皿から漂っていた。そのあとはたしか適当に時間をつぶして別の知人とお昼ご飯を食べに出かける。知人、申し訳なくなるぐらいいい人。私全くお金払えなかった…。リキシャーで大学内の外に出ていい感じのお店に連れていかれる。いい感じのお店のメニューに写真はついてない。分量が全然わからない。そもそも何の料理かさえ分からない。知人にある程度お任せしながら注文した、申し訳ない。いろいろいただく。お野菜のスープ、チーズと玉ねぎをクラッカーに乗せたものの味がする料理、辛めのごはん、牛乳アイスなど。近況報告など。リキシャ―に乗って私のホテルに帰り、握手して別れる。リキシャーのお金も払わせてしまった。その後講義を終えた知人とともにホテルをチェックアウトする。知人の住んでる部屋に移る。知人と屋上へ行き景色を眺める。他方は山、もう片方は高層ビル群。山ではジャガーが出たとか、池にはワニが住んでるとか聞いた。たしかシャワーを浴びてご飯食べて明日の予定を打ち合わせて知人のお部屋で就寝。

 

 記憶が正しければ早起き。電車に乗ってムンバイ南部へ。ムンバイ大学のまた別の知人とともにリキシャーに乗って駅へ。部屋に泊めてくれた知人は講義のため大学で留守番。リキシャーの中から大学の様子を動画に撮っていると大学の門番の人に動画を消せと言われる。削除して復元した。よく分からないまま切符を買ってもらい電車に乗り込む。フリーライダー多そうなセキュリティ。採算取れるのだろうか。いわゆるインドって感じの電車。何がって電車の扉が決して閉まらないところ。怖かったので動画はない。線路にはプラスチックのごみがたくさん落ちてた。同行者は私の様子を楽しそうに眺めていた。

 終点で降りて別の知人とも合流。挨拶を簡単に済ませタクシーに乗る。ムンバイの南部の街並みはレンガ造りでおそらく占領の名残であることが容易に想像できた。きれいな街並みではあった。ムンバイの博物館に行く。庭に大きな仏像の頭が横向きに飾られていた。後頭部はなく、頭の空洞には別の仏像が寝そべっていた。博物館内、大量の石像。熱心に解説してくれる知人。一生懸命聞くも聞いた端から忘却していく私。馴染みのない固有名に弱い。石像以外にも壺や昔の生活の様子やはく製や絵画などが展示されてた。"Make your own Prayer Flag" が驚くべき価格だったので作った。インクを塗ったハンコを布に押す×5しかしてないが。

 昼下がりになったのでお昼ご飯。カレーとナンとご飯食べた。あとパッフェ。「このソース甘いから」と言われて食べたカレーに緑唐辛子が入っていて悶絶した。自分の辛さ耐性の限界を確認した。これをそのまま食べる人が世の中にはいるらしい。その人が感じる辛さと私が感じる辛さは同じではないのだろう。お会計を払わせてしまい再びタクシー(リキシャー?)に乗ってインド門(Gateway of India)へ。ボディチェックをして中へ。写真撮って終了!デリーの門よりも少し小さい印象を受けた。インド門の近くにはテロの攻撃を受けたホテルが建っていた。私は外国人だったからかは知らないが鞄の中はきちんと調べていた。

 その後はTIFR(インドの基礎科学研究所)へ。そこにいる知人に会う。物理の研究について知人同士がお話を始めたので私は蚊帳の外。日本からのお土産を渡してTIFRを後にし、海岸に向かった。おそらく日本でいう鴨川等間隔。上から見るとビル群の光によってネックレスが見えるらしい。もちろんインドなのでところせましと人が海に向かって座っている。カップルや誕生日を祝ってもらう人々を見た。そこで時間をつぶし移動して、約3年ぶりに再会した知人と夕食を食べる。プレートの上に数種類のナンとカレーや付け合わせが乗せられている。お代わりは自由だった。何かをしゃべった。私はたくさん話すことが苦手である。帰りに口直しだと言われて野外で売られていたスパイスを塗った葉っぱを食べた。私が食べたインド料理の中で上位に入る程度に好きかもしれない。私が口いっぱいになってほおばっている様子を見て知人たちは笑っていた。

 3年ぶりの再会を果たした知人はバイクで、残った私たちは電車で帰るためそこで別れた。駅へ向かう道中で地下鉄の建設現場を見た。来た道を引き返し知人の部屋まで帰った。

 

 何時に起きたのかさえ覚えてない。大学の中にある知るカフェへ、部屋に泊めさせていただいている知人とまず行った。ムンバイ滞在中彼には無茶苦茶お世話になった。洗濯できる場所を手配してくれたり私の洗濯物を取りに行ってくれたり、インド対応のコンセントを貸してくれたりこの日色々な場所に案内してくれたり。服屋さんとアイスクリーム屋さん、お土産屋さん、インドのスーパー、露店のココナッツに連れて行ってくれた。知るカフェには海外インターンであろう英語で一生懸命英会話している日本人学生がいた。その後ショッピングに出掛けた。服屋さんの服はカウンターの後ろにあり、店員さんに言わないと服をきちんと見ることができない。アイスクリームは味がいろいろあって美味しかったけど私たち以外誰も客がいなかった。スーパーは生活に必要なものがだいたい売ってる。入るためには鞄の口をプラスチックを使って開けられないようにする。服とかカーテンも売ってた。スーパーの服はとても安いので三枚買った。牛乳はパックではなくプラスチックの袋に入れられていた。会計を済ませて店を出るためには持っている商品に金額を支払ったことを示すためにレシートを見せる。レシートにはスタンプが押される。スーパーを運営するためには人間の手が大量に使われている。

 その後リキシャーに乗ってホテルに帰り、翌日電車に乗るチケットを知人に取っていただき寝た。翌日からはプネーに向かう。

 

 Ⅲ.プネーに関して

 

 早起きして荷物をつめこみ朝食を食べて駅に行こうとするもリキシャーがつかまらずかなりぎりぎりな時間帯になる。駅までも雨がよく降っており道も大変混雑しており、駅に着いたら電車到着の2分前。やべぇ!!と思いずぶ濡れになりながら駅の階段をスーツケース持って駆け上がり、無い頭を必死に使ってプラットフォームを探り当て、やってきた電車をよく確認しないまま飛び乗った。女性専用車両だった。なんなら電車も間違えてた。私が乗る予定の電車が15分ほど遅れていることを後になって知った。さらに扉がないのでその車両から別の車両に移ることはできなかった。ひとまず英語がしゃべれる乗客の女性に乗る予定の電車と目的地を伝えてそのことを知った。その女性に言われた通りにとりあえずその車両に乗ることになった。タコ殴りにもならず身ぐるみをはがされることもなかった。普通に心配されていたと思う。「ここで降りてその次の電車に乗ってね」と言われるがままに電車を待つと私が乗るはずだった電車がやってきた。無事プネーに到着。知人に迎えに来てもらう。

 知人の大学へ向かい、知人の恋人を紹介される。「彼の部屋に泊まってまらうことになるけどいい?または大学の中にゲストルームもあるけど。」私はお金が一番かからない方法を選択した。恋人の部屋にて仮眠をとるように勧められる。夕方にお祭りに行くらしい。別に大したあれじゃないだろうと思っていたが早起きしたり実際電車間違えたりでちょっと疲れていたので素直に寝る。

 薄暗くなったころにバスに知人、知人の恋人、知人の友人たち、私で乗る。このときも乗客はさして多くなく、油断していた。「携帯や財布などの貴重品は服の下に持っておいたほうがいい」という忠告も「そんな大げさな笑」ぐらいに思っていた。バスを降りそこから祭りの会場と思われる場所に向かう。途中で売店のトウモロコシを食べたり頭に鉢巻を巻かされたり写真を撮ったりなどした。祭りの会場はすさまじかった。私がよく見る満員電車を思わせるぐらい人であふれていた。しかも彼らは踊る。よく踊っていた。町の通りワンブロックごとに大音量のスピーカーとインドの神様が乗った車がゆっくりと走っている。車の周りを取り囲みインド人は踊っていた。かかっているのはインドの伝統音楽らしさのようなものはあまり感じない、ただのEDMのようだった。もはやクラブ。道路のあちらこちらがアルコール抜きのクラブ。私は想像と大きくかけ離れた祭りと踊る知人の様子を呆然と眺めていた。知人ら、ちょっと踊ったらすぐに別の車のところに行きまた踊るを繰り返していてわけが分からなかった。私ははぐれないようにと知人の恋人に手を引かれ心ここにあらずといった様子で歩いていた。気が付くと屋台に行き、ハンバーガーらしきものをいただき、再び手を繋いで人込みをかきわけて帰路についた。世界最後の日って案外こんなものなんだろうなと思った。

 

 残りは前後関係に全く自信がないので思い出せる範囲でいくつかのことを列挙する(これを書いている現在は既に旅行から2カ月経とうとしている)。

 

 プネーの博物館に行った。博物館と他にもどこかに行った気がしなくもない…多分本屋さんとか食べ物屋さん。博物館は私、知人、知人の恋人の3人で行ったが常にいちゃいちゃしていたことをよく覚えている程度に博物館のことはあまり覚えていない…

 

 知人の講義などの関係で一人で一度大学内をぶらいついた。事前にもらった地図を頼りに数学学部(?)までまっすぐむかう。建物の近くには黒板があったがなぜかチョークはなかった。なんか講義が始まるっぽかったのでとりあえず一番後ろの席に座っていた。やってきた教授(?)に開口一番「お前は誰だ」と聞かれる。ここの生徒じゃないこと、聴講してもいいのかよく分かってないことを伝えると何やら早口でまくしたてられたが訛りが強くて全然分からない、私の英語力が低いのも一因だろうが。とりあえず「Visitorだ。」と答えておいた。講義は全然面白くなかった。命題も定義も、もちろん証明もなくお遊びみたいな式変形だけやって終わった。講義が終わったあと、親切な学生に単位の心配をされた。もちろん丁重に断った(つもり)。このあと線形代数のテストだよと教えられ正直参加したかったが戻る時間が近かったためこれも丁重に断った(つもり)。今回のインドの講義は黒板に書いてあることは容易に分かったが何を言っているのかはほとんど聞き取れなかった。

 

 知人の恋人のいる建物、つまり私が泊まった建物には卓球場とバトミントンのコートがあったのでそれで知人の恋人と遊んだ。彼はラケットの持ち方やスイングの腕の使い方などを教えてくれた。バトミントンコートには途中猫がコートに寝転がるなどした。

 

 ドミノピザ食べた。ピザ屋さんの周りで道端で丸まって寝ようとしている犬をたくさん見た。

 

 歌を歌った。(多分)日本語の曲をと言われたので3月9日を。

 

 出発前夜にインドでお祝いの時に食べるらしい甘い何かを食べた。料理名をちゃんと覚えていないのは申し訳ないと思っている。

 

 いくらかの時間を近くにある図書室で過ごした。延々と誰にも邪魔されずWi-Fiがある環境でリーマン面とお話してた。もはや目的もないのに大学にただでいる人になっていた。

 

 といった感じで過ごし、早朝にプネーを出発してムンバイの空港に向かった。ムンバイまでの電車は何も問題なかった。言われた通りの駅で降り、リキシャーをつかまえて空港に向かう。意外と乗せてくれなくて若干不審に思っていた。雨の中なんとか乗せてくれるおじさんが見つかり乗り込む。そのリキシャーにはメーターがなかったが(メーターがあったほうが清算の交渉をしなくて済むので楽)、あまりにも乗せてくれる人が見つからず雨もひどかったので仕方なく乗り込む。「長旅になるぞ」と言われ、実際2時間近く知らないおじさんと無言でいた。最寄り駅から空港までまさかそんなにかかると思わなかった。「domesticか?」と聞かれたので「internaionalだ」と口を酸っぱくして答えた。到着したのは国内線だった。国内線であることが分かったのは空港の建物に入った時、運転手のおじさんには既にお金を渡していた、おそらくちょっと高めの額を。ふざけるんじゃねぇ。怒り狂いながら空港内のリキシャーに乗り海外線に向かう。そこのおじさんはメーターに書いてある額よりも高い額をふっかけてゆずらなかった。なんだその機械は、お飾りか?でかい声だしたら払ってくれると思うんじゃねぇ(払った)。リキシャーはとても嫌いな交通手段になった。空港に着いて早めに出国手続きを済ませ、ハンバーガーを買い、付いてきたポテトのソースの辛さに驚きながら空港で時間をつぶす。途中どこかのトイレで折り畳み傘を忘れた。これ以上何事もなくだらだらするつもりだったが、いざ飛行機に乗る段になって私のスーツケースが飛行機に乗らないことを知る。携帯のモバイルバッテリーはスーツケースに入れてたらだめです。大変なことになります。搭乗口の私はなぜ冷静だった。だってこんなことよくあることだろうし空港の人も対応にはなれてるはずなので言われたとおりのことをすればいいだろうと思っていた。実際に乗り込んでからはちゃめちゃ気分が悪くなった。自分の一部がどんどん遠ざかっていく感覚。返ってこなくても取り返す手段はどこにもない。空港のおばさんの言葉を信じるしかあるまい。鬱。

 

 帰国して三日後くらいに関空からメールが届きそれから数日後にスーツケースは着払いで返ってきた。

インド滞在 Ⅰ

 2019年9月3日から17日までのインド旅行に関して書き留める。忘れそうなことを中心に記述するのでともすると読みづらいかもしれないが、まあ私が分かればよい。

 

 Ⅰ.デリーに関して

 

 出発日。初めて飛行機に乗ったので異様に緊張した。周りに誰もいなかったので飛ぶ前の焦らしの時間は始終呻いていた。いざ飛ぶとどうでもよくなったので寝た。冷房のせいかのどが乾燥した。その後数学した。あと最初の軽食を配られるときにインド人の添乗員になぜか気に入られた(”I like you.” 言われた)らしくジュースとナッツを二人分もらった。

 デリー空港に現地時間22時前に着。スーツケース回収してしかめっ面のおじさんにビザの隣のページにスタンプ押してもらって入国。別のおじさんに「一万円からだ」と言われたが困った顔して四千円置いてたらインド通貨(ルピー)と両替できた。空港の外のゲートへ。生暖かく湿った、少し鼻につく空気。

 知人の弟の方と待ち合わせていた。弟は知人によく似ていたので、すぐ彼だと分かったが、一応事前に聞いておいた誕生日をもう一度彼に尋ねた。彼は私が知っていたそれをもう一度答え、一言 "Cool." と言った(単に私があまりにも用心深かっただけです)。

 地下鉄を乗り継ぎ彼の下宿先へ行く。デリーの地下鉄で使えるプリペイドカードをもらった。飛行機で疲れているので彼とはあまり口をきかなかった。下宿は彼の大学の近くにあり、大学から歩いて向かう。路上には犬がたくさんいて、牛も普通に歩いてた。さしてお腹がすいていたわけではないのに、彼が出前で頼んだ食事(ごはんの上に細切れになった鶏肉を乗せスパイスで味付けしたもの)はかなり量があった。食事を腹に詰め込み、彼に風呂だと言われ案内された場所で、さて風呂とはいかなるもので、これはどういう機能を備えているのだろうか、と無い知恵を振り絞って入浴した。そこにあったのは一つの蛇口と大きなバケツ、小さなバケツ、石鹸であった。実際は私が行ったのは入浴ではなく水浴びというほうが正しいのかもしれない。

 もともと二人部屋らしくベッドが二つあったので一つをお借りして大きな扇風機の下で寝た、現地時間午前2時頃(その日彼の同居人がどこにいたのか私は知らない)。

 

 二日目。彼の大学の学食を朝食にして駅まで送ってもらう。この日のミッションは予約したホテルに行くこと。ホテルの最寄り駅までは何の困難もなかった。彼によると、そのあと個人タクシー(以下リキシャ―と表記)にホテルの名前を告げれば到着するはずだった。到着しなかった。場所知ってる顔で人を乗せて、適当にそれっぽいところで降ろして金を請求するんじゃない。その後運転手は、案内役と思しきおじさんに私を渡した。場所を知っているという男に黙ってついていく。歩いているとまた別の知らない男が英会話しようという意図で話しかけるので不愛想に適当に答える。ここの角曲がったら右手にあるよと言って男は去っていった。ホテルはなかった。二日目にして迷子の出来上がりである。英会話男はなんか旅行案内所に行けという全く意味不明のアドバイスをして消えた。インターネットがない私は無力である。ひとまずリキシャ―を降りたところまで戻り、適当にホテルに入り場所を聞く戦略を取る。三人ぐらい聞いたら着いた。駅から全然歩いて行ける距離だったのでなおさら運転手への恨みが募る。その後手持ちの現金が足りなかったため、だめだめなレートで宿泊費を払いチェックイン。たしか14時ぐらい。シャワーを浴びてぐったりする。シャワーを発明した人に感謝するなどした。

 晩御飯を食べたり、近くを散策したりするためにしぶしぶ外に出る。ひとまず目的地を別の近くの駅(New Delhi駅)に設定し、そこまで歩くことにした。暑い。人多い。リキシャ―とバイクのクラクションうるさい。最初西と東を間違えたのでたくさん歩いた。コンパスを使うという知見を得た。服屋、アクセサリー屋、薬局(?)、靴屋、屋台(?)などが通りに並んでいた。何も買わず一本道を歩き続け目的地に到着した。駅、何もない。駅の中とか近くに飲食店がたくさんあるだろうという私の予想は外れた。

 帰り道で水を買い、その途中のイタリアンっぽい店でピザを食べホテルに帰り寝た。ホテルの従業員の話す声がよく聞こえた。

 

 翌日は早起きし電車を乗り継ぎ指定された駅へ向かう。この日はタージマハルに行った。知人に電車の席を事前に予約していただいていたのでその席を探す。どのプラットフォームか分からず、直前までばたばたし、なんとか電車を見つけて乗り込む。寝台車だった。同乗者のおじさんに目的地を伝え、雑談しながら三時間過ごすとその人に「ここで降りて、タクシー捕まえてタージマハル行ってらっしゃい」と送りだされた。おじさんはアメリカで働いてて実家に帰る途中だと言った(と思う)。両替しなきゃって私が言うと、携帯で近くの両替所を探してくれた。人とたくさん話をするほどの元気はなかったので半分くらいは車窓を眺めて過ごした。おじさんは英語の本を読んでいた。

 駅の中には猿がたくさんいた。駅から出るとたくさんのおじさんが話しかけてくる。全部詐欺だと信じて疑わなかったのでタクシーを探しつつそれらを全て無視する。しつこい時に "Shut up." と言うとクレイジー呼ばわりされた。うける。騙されはしないかと訝りながらタクシー乗り場で目的地(両替所)を伝え、車に乗り込む。タクシーのおじさんはよくしゃべった。なんでもこの後タージマハルまで行き駅まで連れて帰るから、500ルピーでどうだなどと言われる。結局このおじさんと5時間ほど一緒にいることになる。

 両替を終えた後おじさんの勧めでタージマハルの裏側が見える庭園に行く。しっかり入場料を払い30分ほど無心で写真を撮る。野生のリスを見かける。警備のおじさんに話しかけられる。暇らしい。庭園を出た後タクシーのおじさんに服屋に連れていかれる。上下合わせてでだいたい3000ルピーぐらい(たしか)(日本円で5000円弱くらい)と言われ、手持ちが足りないことを悟る。それよりずっと安いスカーフを3割引きしてもらい、店を出る。それでも手持ちが足りなかったのでもっかい両替した。いざタージマハル。服屋で時間を使いすぎたらしく、タクシーのおじさんがガイドをつけることを提案する。早く見れるということと、おじさんの押しの強さで折れる。付近でガイドのおじさんと合流してタージマハルの入り口へ。おじさんは片言の日本語を話した。すでに人間としゃべり続けて疲れたのでガイドのおじさんともあまり話はしなかった。しかしおじさんは自分がガイドという仕事に従事していることを主張するかのごとく、タージマハルに関するあれこれを片言日本語を交えて説明する。私はあまのじゃくなので全部英語で返答していた。今思い返すと性格悪いと思う。

「これはイギリスの女王が座った椅子です。」

「私、女王って概念が嫌いなんだよね。」

「インド人は英国が嫌いです、日本とはよい関係にあると思っています。」

 (さようでございますか…)

のやりとりはなぜか覚えている。タージマハルはきれいだった。見れてよかった。

 ガイドのおじさんにお金を払い別れ、タクシーのおじさんに500ルピー払って駅に着く。さて、帰りの電車は26時間遅れていた。個人的に海外っぽいと思った瞬間である。さすがに待てないのでひとまず駅員を捕まえて相談する。いろいろ事情を話し、Wi-Fiを手に入れる。インターネットは人を強くする。インド人の知人と通話をしどうすればいいか尋ねる。知人に言われるがまま駅のえらい人と電話を代わる。知人とえらい人は少しお話をした後、帰りの電車を用意してくれた。駅のえらい人も英語は苦手なようだった。帰りの電車に乗るための知人からの指示は、乗る電車に関する情報と、

「電車に乗ったら手近の人を捕まえて私と電話をさせろ」

 だった。駅のえらい人は乗る場所と時間を教えてくれただけだった。そんなんでいいの…。電車に乗っていざ誰かに話しかけると、思ったよりも英語が使えなくて焦る。まあなんとかなったので、電話をした若い男性(多分私と同年代)が席を一つ譲ってくれた。彼と彼の友人は私が珍しいらしくなんかいろいろ話をしようとがんばってた。食べ物もちょっともらった。水も勧められて飲んでしまったが、あとから安全っぽいことが分かる。google翻訳で会話をしたのであっという間に充電がなくなった。3時間でホテルに帰れた。可及的速やかに寝た。

 

 ニューデリーにいながら観光しておらず残り二日しかないことに気付く。洗濯物をホテルに預ける。知人にレートがよい両替所を紹介してもらいそこにいく。電車に乗り、駅を出てからもやはり道に迷い、両替しホテルに帰ってくると午前が終わった。朝起きたのも遅かったし。

 ホテルに戻り行きたいところを決めて再び外へと繰り出す。地下鉄で最寄り駅まで行くことは困難ではない。最寄り駅から目的地までで三回道に迷う。地図でだいたいの方向しか確認してない私が悪いのだが。観光地なんだから人がたくさん通る道を探すべきであった、と思うなど。ひたすら歩いたので汗だくで既に夕方だったがロータス寺院到着。蓮の花の形の建築物。中には入れるようだったが人が多くどのくらい待つか分からなかったのでやめた。再びホテルに帰り荷物を準備する。ホテルに帰ると窓が開けっぱなしでちょっと怖かった。これから知人の弟に実家に弟と行くことになっていた。疲れていたので約束の時間を30分遅らせてもらい、指定された駅に向かう。知人はさらに約30分遅れた。合流し電車で終点まで行く。終点からリキシャーに乗り約20分。所せましと車が並びどの車両も急いでいるので事故になるのではないかと震えていた。リキシャ―を降りて、少し歩き、路上で売ってたパ二プリなるものをいただく。ググればどんなのか分かる。おいしかた。

 いよいよ友人の実家へ。漠然とインドの古典的な建築に住んでるのかと思っていたが、普通にマンションだった。13階かそのへんに行く。入口には警備の人がいた。靴は入口の外に置く。おそらく民族衣装を着た母だけが住んでいるようだった。弟の部屋に案内される。冷房があったほうがいいか聞かれ、あったほうが喜ぶと答えると母親の部屋に連れていかれる。ここで申し訳なさが募る。その部屋にだけ冷房があるらしい。質素な部屋に見えた。覚えているのはベッドと化粧台クローゼットの扉、天井のファン。食事前に足を洗うよう言われる。言われるがままにとりあえず手足を洗う。というか全身シャワーを浴びてもよかったらしい。彼は普通に風呂に入ったらしく、彼の風呂と、食事の用意ができるのを待つ。そのマンションは風呂とベランダが二つあった。

 床に布を敷き、その上に食事を置きいただく。異文化交流を目的として日本食を食べる外国人の様子を見たことがあるが、まさにその時彼らの気持ちがよく分かった気がした。私は不勉強だったのでインドでのマナーは一切知らなかった。マナーを知らないので彼らがどういう行為を許し、何をすると怒るのかまるで見当がつかない。結果彼らの食事の様子を観察し、それを模倣することになる。すんごい手をじろじろ見た気がする。ますカレーとナンとヨーグルトが入った器を用意する。お祈りをし、各々の皿に取り分ける。見様見真似で右手だけを使いナンをちぎりカレーの具をつかみ口に運ぶ。ナンにヨーグルトをつけて食べる。飲み物を持つのはどっちの手か考えながら水をのどへ流す。ナンを食べた後はお米料理(多分スパイスを使って炊き込んでる(?))とカレー、ないしヨーグルトをスプーンで食べる。ご飯に入ってるガラムマサラは除いて食べるよう言われた。だんだんスパイスの味以外分からなくなった気がしていると食事が終わった。食後に祈ることはないらしい。お皿を運ぶのを手伝い、デザートをいただく。ぎょうざの形をした、揚げ物っぽいお菓子だった。食べてる間少し母親とお話する。お互い英語がめためた下手なのであんまり意思疎通ができない。構図が文化交流に来た外国人と興味津々なホストにしか思えなくてちょっと居づらさを感じた。そのあと寝るベッドを決めて7時に起こしてほしいと告げて寝た。彼らはそれぞれの仕事をしているようだったが、私はすぐに眠りについた。どこで寝ても大きなファンが天井で回っている。

 

 母親に起こされたのが8時。弟はなかなか起きてこなかった。シャワーをお借りし、起きた弟と一緒に朝食(おそらく食パンと卵焼き)を食べ、兄である知人へ渡すものをいくつか預かり、結局実家を出たのは朝10時。デリーが観光できるのは今日が最後なので早く出かけたかったところ。それといろいろいただいてしまったので荷物がとても多くなってしまった。移動がしんどい。泊めていただいたので文句を言える立場ではないが。朝早く出れれば一度ホテルに帰ったのだが。

 実家から最寄り駅までは彼のスクーターで向かう。スクーターに乗るのは何気に初めてだったのでとっても怖かった。遠心力とか。最初は彼の肩を固く握りしめていたが途中でなれた。私と弟は二人ともヘルメットをしていたが、インドではヘルメットを被ることはあまり一般的ではないらしい。父親がヘルメットを被り、母と小さな子供は被らず父親の後ろに乗っている光景も見た。流れていく景色の中で感傷に浸っていると駅に着いた。

 電車を乗り継ぎアクシャルダーム寺院へ。写真は撮れず荷物をほぼ預けて中へ。なんかいろいろ見た。例えばほげほげ教(忘れた)の歴史みたいな展示、お金かかってた。ポストカード買った。

 そのあとはまた電車に乗り近代美術館へ移動。すでに昼下がり。駅から美術館まで歩き、道中ズボンを大雨に浸す。だってリキシャ―使いたくなかったもの。美術館内は写真撮り放題でよかった。美術館を出るころには雨もあがっていて道路にできてた川は小さな水たまりになっていた。

 再びリキシャ―を使わないため歩き続けインド門を眺め(ボディチェックあった)、博物館で適当に展示品を写真に収め、また歩き続けて駅まで戻る。ズボンはすっかり乾いていた。ホテルに帰ると夕方だった。洗濯物を受け取る。服の目立たないところに番号が書いてあった。朝から何も食べておらずお土産も探してないので荷物を整理してショッピング街へ。適当に食べ物を物色して腹を満たし街中をほっつき歩いてスタバでマグカップを買う。終電が近かったのであんまりお店開いてなかった。ホテル帰って荷物整理して就寝。

 

 早起きして空港行く。空港内に入るとスーツケース開けろと言われ、中のものを全部ひっくり返される。完璧につめてたのにつめなおさないといけなかった、怒り。搭乗手続きをしてWi-Fiをつないでもらい空港についたことを何人かに連絡するとすぐにムンバイへ飛び立った。

植物園内

 深夜。
 電車の運行が止まるころ。
 要塞の柱のような骨組みが作るビニールハウスの中。

  淡い紫、夜明け前を思わせる花が咲いていた。四センチほどの大きさ、外側の花弁が大きく開いており中央は螺髪のように小花が集まっている。スカビオサは病んでいた。
「儚い私の一生と悲しい。私が持っているものは、私のものじゃない。いずれそうなる。私の生をはく奪する時間。すべてを失った私、私さえもいない。つまり最初から何も持ってなんかいなかった。最初からすべてを失っていた私――。」
 嘆きに対して最初に応答したのはハスだった。水の上を永遠に浮かんでいるかに見えるそれは言う。
「あなたには有限だが、時間が与えられている。時間が存在しないとあなたは呼吸さえままならない。酸素を取り込んだあなたは酸素を得て、奪って生きている。」
 スカビオサはすすり泣きを始めた。葉の緑が深くなり、茎を通る筋がわずかに光を発する。
「すべてが熱的死へと近づいているの。つまり全部失われる。僅かな所有欲。叶わぬことが約束された願望。なんと呼べば正しい。絶望以外にふさわしい名前の存在は。」
「絶望?何も持たずに生まれたことに関して。どこにそれが。希望は見えないかもしれないが、そこにはそれさえもないだろう。」
「生まれ持っての悲劇じゃないの!でもあなたは永遠。その永遠は罪となり、ここにおける罰。かくも容易にあなたは永遠をまさに、『所有』してしまう。あなたは知覚する。そして考えられることしか考えることができない故!」
 ハスは黙り込んだ。スカビオサと会話を続けることに飽きてしまい、ただ花びらを大きく広げ内部を惜しみなく澄んだ空気にさらした。
 アネモネがハスの言葉を継ぐ。
「そうしてすべてを捨てている。あなたのものを奪うのは時間じゃない。おまえが自らただ悲観的なふりをして捨てている。避けがたい極端な悲劇。これ以上のものを恐れ、ひざをついて。新たな一日が、明日になるはずじゃなかったのか。」
 スカビオサは答えない。ただ花弁を大きく震わせた。アネモネはハイになって言葉を続ける。
「生むのか、その悲しみ所有欲を持つ。それは満たされてしかるべき、方法的懐疑。私は恐怖する、自らの身を焼く存在あなた。」
 スカビオサは冷徹に言葉を紡ぎ始める。
「失われるその言葉の意味、この喪失。決して届かない、あなたの言葉は何をしても、どうあっても。」
 アネモネは気が狂いそうになるのを抑えるために黙り込んだ。その真っ赤な花弁は夜から奪い取った黒みを帯び、周りから水分をたっぷりと強奪し、その体は張りをもつ。
「気が変になるのは私まさに。同義になる私と存在しない、この場所は最初から無いも同然。わかっているでしょう、気付いていてそうじゃないふりをする。何もない、すべてがあるかのよう。確信。何かの中にいた私は何かを持っていた。精神を苛む、あの懐かしさと呼ばれる得体のしれない。」
「あなたが早く何も持っていないことを肯定的にとらえることができればいいのだけど。」
 さっきまで黙っていたゲッカビジンが口を開いた。大きく外に開いた細く、真っ白な花びらがかすかに動くほどのささやき。花の近くで茎は細く、大きくゆがむ。
「あなたはすべて最初から手に入れることができながらそうしなかったからそんなことが言えるのよ。」
「戯言を。」
 
 甲高く踏み切りが叫び始めた。

物質化する音波

  ある日、音が世界から消えた。原因は不明。代わりに、音は目で見えるようになった。大きな太鼓を鳴らすと、太鼓から大きな重たい石が出てきて床に落ちるとパッと消えた。手を叩くと伸縮性をもった細長く柔らかそうな束が手からこぼれた。声を出すと口から文字が、その人がまさに話している言葉が流れ落ちた。音楽鑑賞とは楽器やスピーカーから出てくる物質の美しさを鑑賞するものとなった。話はそれだけでは終わらない。
 目が見えない人は聴覚さえも失われたことになる。しかし音が消えたあと、どうやら彼らの視力が回復しつつあるらしいことが分かった。まず物質化した音、それから、かつて見えていなかったものが、見えるようになった。彼らの視力は驚くほどに進歩を始め、ついには見えないものさえも見えるようになった。例えば紫外線や赤外線、箱の中のものやある人が隠しておきたかった過去などなど。しまいには、存在が信じられていないものさえも実は存在していて、それが今まさに眼前にあるのだと主張する者さえ現れる始末だった。目が見えていた人々は戸惑うばかりだったがそのうち彼らもそう言っていられなくなった。
 かつては目が見えていた彼らの視力が急速に失われつつあったのだ。まず音以外がぼやけてかすれて霧散した。その後音はどこにも現れなくなった。完全に目が見えなくなった人々はその後自分がどうなったか理解できなかった。

進歩的な人間による述懐

  まあ聞き給え。私は人間がどのように生きていくのが望ましいのかこれまで考えてきた。え、人間の定義は何かって?いい質問だね。まあとにかく私はよりよく生きていたいからね。きちんと考えるわけよ。哲学書だって一っ生懸命読んだよ。古今東西食わず嫌いなんかせずに読んできた。文学も読んだ。もちろん参考になる、人生の警句とでも呼ぶべきものがたくさんあった。昔の偉人は偉人であるがゆえに私に読まれたということだ。
 私が今、やろうとしていることは、啓蒙することだ。啓蒙って何か知ってる?まあ、要するに、私がこれまで考えてきたことを伝えることで、君がよりよくなるようにすることを私が望んでいるってこと、かな。そんなに長くないから、まあまあ。誰だって自分の人生を意義深いものにしたいでしょう?とても簡単だ。人々はよく
「生きていく意味が分からない」
 とか
「どう生きるべきか分からない」
 と言う。でもとても単純な、誰もが納得できるある事実を認めてしまえばそんなことは解決する。前置きが長すぎたかしら。でも別に五分もしゃべったわけじゃないからちょっと大目に見てほしい。冗長でさしておもしろくないゲーニンなんかじゃなくて、今、まさにしているのは生き方の、人生の話だから。もうすぐこの短編集の一番短い短編と同じだけの文字数を使い切っちゃう?だから、せかさないでおくれよ。逃げないから、さ。
 本題に入ろう。ある事実を認めれば諸々の説明がうまくいくってところまで話したのかな。まずその事実が何なのか、から述べないといけない。えっと、あまり笑わずに聞いておくれ、私は真面目に言っているから。それはね……(一息吸う)私たちは幸せになりたがっているってことと、私たちは誰かの役に立ちたいってことだ。ゆっくりと、この二つからどんなことが導けるかみてみよう。
 まず、私たちは幸せになりたい。だから、自分が幸せになれるように行動しなければならない。ある人にとっては美味しいショートケーキを食べることかもしれないし、別の人にとっては隣のやつにテストの点数で勝つことかもしれない、ダイエットに成功することかも。人によって楽しいと感じることは違うから、何が幸せかなんていろいろあって当然だ。
 でもね、よく考えてみると、いや、考えるまでもなく、誰にとっても幸せなことって、あるだろう。例えば、お金をたくさん稼ぐとか、地球規模の大問題を解決するとか、幸福な家庭を持って子供をたくさん授かるとか、自分がしたいように生きていくとか、ね。まさに幸福を目指そうと思えば君はきっとうかうかしてられなくなるのではなかろうか。やるべきことも学ぶべきこともたくさんあるはずだ。むずむずする気持ちはよく分かるけど、もう少し、言いたいことがあるから聞いてほしい。まだ、もう一つの事実に関して述べていない。
 ひとまず、私たちは人の役に立ちたいという「事実」を、少しだけ吟味してみようか。ほんとにそうなのかな。疑うことは哲学の基本だからね。つまり、これを事実としてしまったけど、もう少し根本的な原理の上にこの事実はあるように感じないか?なんだと思う?それは、私たちは一人で生きていけないってことだよ。当たり前かな。だから、ちょっとくさい言い方になっちゃうけど、やっぱり私たちはお互いに助け合わなくちゃいけないし、助け合うと双方が幸せになる。ここに幸せが現れる。それに、助けてもらってばかりだと、なんだか申し訳ない気持ちにならない?それはまさに、君は人の役に立ちたいっていう気持ちの表れだよ!つまり、
「誰もが人の役に立ちたい!」
 と思っているわけだね。ちょっと先走って非自明な事実を述べてしまったけど、なんてことはない。
 それでね、少し考えてみたいのは、この二つがうまく両立するかどうかということだ。実はこのままだとうまくいかなくてね……。どこがまずいかというと、自分がやりたいことが、どうやら人助けにあまりならない場合だ。そういう時はね、君のほんとうにやりたいことはそんなことではないと、考えるべきだね。
「こんなことをやって一体何の役に立つのか、何の意味があるのだろうか。」
 なんて考えることは間違いなく、君のやりたいことでもなければおそらく役に立つことでもないだろう。そんなものはとっととやめてしまって、急いで、自分がしたいことをよく考えるべきだと思う。
 なんだい、
「自分がほんとうにしたいことが分からない」
 って?何をそんなつまらないことで悩むのよ。さっき言ったでしょう、まず、誰にとっても幸せであるような幸せを達成する。自分のしたいことはゆっくり探せばいい。自分のしたいことが見つからなくたって、幸せな人は、たくさんいる。そういう素晴らしい人たちをまず目指せばいい。しっかり勉強して、それに見合った働きを社会の中でしっかり果たして、その報酬としてお金を手に入れる。それだけなんともまあ幸せなことだろうか!そう思うだろう!

 

 

 こうやって話を続けている間にもその人の肉体は少しずつ消失していた。長ったらしい前口上を話し終えたあたりから爪がひとりでに剥がれ、細かい粒に幾度も分裂して見えなくなった。その人は少し顔をしかめたが、それでもまるで使命を果たそうとするかのように口をせわしなく動かし続けた。私は言葉を捉えることをやめて(実際とても退屈していた)、身体に起こっている変化を仔細に観察し続けた。爪の次は手、服の袖、靴、足が泡立ち、分裂し、糸がほつれるように、霞になりながら消えていった。その人の顔は困惑で満ちていたが、それでも、まるですべてを語れば失われた部分を取り戻せるかのようにしゃべり続けた。
「神の存在だって?いると考えたほうが幸せならいると思えばいいのさ!私はいなくてもそんなに困らないけどね、でも今は信じ……」

 唇がしか残っていないのにどうして声が聞こえるのだろうと、さっきまでその人が座っていた椅子の上で小刻みに震えながら軽くなっていくそれを、私は不思議に思いながら、頬杖をついて眺めていた。そして信じるか信じないのかを言い終えることなくさっきまで座っていた人はいなくなった。私はあくびをし、飲みかけの紅茶をもはや誰も座っていない椅子に丁寧に、花に水をやるようにひっくりかえし、中指を一度立てて。

 

 その場を後にした。

無題

 ダンスミュージックで体を動かす時計
 回り続ける子供
 階段を昇り降りし続ける二つの天秤


 けたたましく鳴り響く電子音楽、重低音が一定の間隔を刻み、お決まりのフレーズをひたすら繰り返すだけの空間。過剰なまでに多くの色が降り注ぎ、せわしなく動き回りながら存在をいたずらに主張する。タバコと酒と体臭のにおいで満ちているのはそこがパラダイスと呼ばれていた所以だろうか。原罪を何度も上演するためだけに、追放されるためだけの舞台装置。大音量による体の奥の重い共鳴を感じながら、身にまとった布のささやきを皮膚で聞く時計がいた。その場は時計に支配されると同時にまた時計を支配していた。まるで音楽を編集するように時計は恣意的に時間の刻みを遅らせ、または早め、また定型化されたパラグラフを必要以上に再生し続けることができ、それらを気が済むまで行った。檻は幾度となくその様子を眺め、ほくそ笑んだ。

 自らを過大評価する人がいた。知りたいことはすべて知っていて、行きたいところへはどこにでも行けて、やりたいことは全てできると信じて疑うことはなかった。とても容易である。何かを知ろうとしなければ全てを知ったことになり、知らないことは知っているふりで十分であった。どこか遠い国に行きたいなら自らの想像力の範囲で遠い国に行ったことにし、旅行記を書く程度は造作もなかった。朝起きてから夜寝るまで、世界はすべて自分のものであり、思いのままにできる対象であった。しかしその人にとって最も恐ろしいことは、その人が呼吸したまさにその一日はその一日である必要がなかったことである。

 宙に乱雑に浮かぶ大小さまざまな階段。パステルカラーで塗られたカラフルなもの、ものものしく重厚感あふれる手すりがついたもの、おしゃれな螺旋階段、神社を思わせる落ち着いた和風の石段などなど。
 うちの一つに、二つの天秤がいた。平面がかくかくと折れ曲がり、どこかと別のどこかを漸近的に接続することのみを志向したオブジェクトに腰掛けていた。あるいは底をすり減らしながらゆっくりと歩いていた。彼らは両端の二地点を行ったり来たりしながら、果たして彼らは何者で、いったい何がしたいのか考えあぐねていた。階段は極度に抽象化されたため上下は存在せず、雑多に集められた階段を天秤は気まぐれに比べてみたが、もはやそれはどちらに傾くことはなかった。