フィクション的人間観察

  観察している人物を仮にA氏とする。

 A氏の一日はひどい頭痛とともに始まる。頭をすっきりさせようと蛇口をひねるとぼとぼとと流れ落ちる蛙。コップで受け止め蛇口を締める。別のコップに持ちかえて、改めてひねると水が流れる。水はのどへ流し込み、蛙は飼っている蛇の巣穴へ放り込む。いつも通り。目についたものを適当に胃袋に突っ込みながら一日の予定を反芻する。特になし。部屋に干してある目についたTシャツを着て家を出た。蛇の胴体は既に膨らんでいた。
 太陽が出ている間A氏は持ち場にいる。A氏は物思いにふけっていた。なぜ毎日同じ回数食事をするのか、と。
「まあ待て、いつ、何を食べようが、自由な、世の中ではなかったのか。いったい何が私をそうさせるのか。なぜ習慣なんかに囚われた感覚に、しかもそれがまるでよくないことのように思えるのだろう。」
 A氏の思考は、ペンケースに生けてある牙をむき出すパスタの世話をすることを思い出し中断された。ジッパーが半開きになって立ててある布製の入れ物に好き放題に、きらめく線があらゆるものを突き抜けようとのびている。容器に朝採れた蛙を注ぎ込み、その硬そうな質感と、細さによる儚さを備えた麺をA氏はしげしげと眺めた。
「今日の昼食はミートソースにしようか。」
 大量の鳩がその腹を満たす隣でA氏は食事を済ませる。A氏には全く理解できないが、鳩は翼を騒々しくはためかせ、ただ物を口に含むことと隣の鳩の皿のおこぼれを貰うことに執心している。食べるために来たこの場所に、A氏も鳩も結局食べられてしまう感覚にA氏は陥る。何を食べられているのだろうか。ぼんやりとした感じを抱きながら、A氏は自分の食事で使われている肉が鳩肉でも美味しく食べられるか考えつつ、黙々とフォークとスプーンを動かす。ソースが絡んだしなやかな麺がぴちぴちと、A氏の唇の上ではねた。無感動に顎を上下左右にすり合わせ弾力をすりつぶす。
「食べられれば、なんでもいいかなぁ。」
 使った食器をアイスで青く塗ってA氏は持ち場に戻った。午後が始まる。
 A氏の午後は声を使う。A氏の声は空間を弱弱しく押し、楽器はそれをかき消そうとする。
「ここが執念場だ。これを終えたら砂糖の蜂蜜漬けを食べよう。」
 自分に言い聞かせながら、話すように求められていることを立て板に水のように語る。
「大切なものをまるで麻痺のように扱ってしまって、君はエントロピーできないのかね。」
 A氏の話を遮ってピアノが非難する。
エントロピーするってなんだよ。」
 と思いながらも、
「この文脈において、咀嚼因子は、本質ではありません。それと、エントロピーするとは、どういった意味でしょうか。」
 と返すA氏。
エントロピーを知らないのはまあいいけどね、君さあ、何をもって本質なんて言葉が使えるのかね、え。」
「ある概念が、そこにおいて、諸現象を説明するのに十分なだけの、情報を、含んでいることでしょうか。」
「本質なんてものがあると本当に思っているのですか。」
 今度はオカリナだ。
 身動きするな。
 楽器との会合を終えてぐったりとしたA氏は砂糖ではなくチョコレートを蜂蜜につけて食べていた。今日はいつにもまして頑張ったので少々の贅沢は許されるとA氏は思っていた。チョコレートを食べ終えて持ち場で時間をつぶした後、朝昼と同じように食事をとり、A氏はいつものように持ち場を終える。累々とうごめく流れの一部となってA氏も帰路をなぞっていく。いつものように途中の建物に立ち寄る。扉を開けると、何人か顔なじみがいる。挨拶もそこそこにし、A氏も輪の中に加わる。
「だーるーまーさーんーがーころんだ!」
 大きな声が何度も壁に跳ね返りこだまする。A氏は頭をからっぽにして体を動かし続けた。帰属意識が脳に快楽物質を送り込み、A氏の顔は生き生きと輝く。ただそれだけが楽しく、生きがいで、全ての神経をそこに注ぎ込み没頭した。時に冗談を言いながら笑い、困惑し、または怒りながら、それでも集団の中でコミュニケーションが成立しているこの空間にいると、ただこの時間を繰り返したいがために昼の時間を過ごしていたことを、氏はいつも理解するのだった。
 夜も更けたころ、場はお開きになり、A氏は軽い頭痛と倦怠感、それと過剰な高揚感を抱えて、名残惜しくその場を去る。途中で蛙を踏み殺したが気づいていないようだ。
乱暴にドアを開け荷物をマシュマロに埋め込む。部屋の中央に坐した塗装がところどころ剥げ、手すりの錆が目立つメリーゴーランドに身を預けスイッチを押し、回転する木馬の上でA氏は睡眠活動を始めた。メリーゴーランドは少しずつその回転を加速させた。

α₋ω

  冬の昼下がり、太陽の光を吸い込む柔らかい砂の上に、影のように黒い猫がいた。手足を丁寧に体の下にたたみこみ、全身の毛を逆立て微睡みの中にいる。
空からどろりとした手の平ほどの塊が落ちてきて逆立てた毛が静かにたわんだ。塊は無色透明で、ちょうど液体が蒸発するように少しずつ空気と混ざりながら消えた。猫はまるで気にせず伸びをする。ゆっくりとその毛にそって流れ落ちる何か。絶え間なくそれは降り続け、猫を濡らす。

 猫の近隣の人々に異変が生じたのは塊が人知れず降ってきた少し後だった。それは言葉の数の増加から始まった。つまりある特定の小さな集団ごとに語彙が多様化し、異なる集団間の会話はまるで出身が違う人々が方言で話すように、文意を取ることが難しくなっていった。同じ状況は近隣以外でも起こっているらしいと分かるころには、もはや他の土地の状況は異国の言語のような形で伝達された。
空も変化を始めた。天井知らずの高さであったはずの空が、どうやら地上に近づいていた。星や太陽はこれまでより大きく、より近くにあり、雲は低い山の頂上さえも覆い隠した。そのころには歩くだけで足に少し冷たい何かがまとわりつく感覚を覚え、どんなに晴れていても人々は傘を差して出歩くようになっていた。

 山々は空に押しつぶされた。人々が築いた天にそびえんとする建築群は空に突き刺さる。白い亀裂が縦横無尽に走りそこから粘性をもった液体が滴り続ける。もはやどこかを一望できるような視点は存在せず、太陽は毎日地上に光線を降らせ、軌跡は焦げ跡となって地上を横切る。月は空がつぶしきれなかった物体を踏み潰す。ただただすべてが平板化されていった。

 ついに人々は誰一人として誰とも意思疎通を行うことができなくなっていた。すべての人が異なる言葉を用いた。言語が、価値観が、生活様式が、文化が、社会的な行為として共有されていた意味が、すべて失われた。他人が何を考えているか、何を重要視しているのか、どのような倫理体系を持ち、数秒後に何をするか、予測することも推論することも不可能だった。各々の言語体系も時々刻々と変化していた。つまり、日記をつけたとしても翌日にはもはやそれは意味を為さず、語ること、考えること、行為することの一貫性は瓦解した。人々は哀れなことに言語が失われる前の記憶は持っていた。もっともそれはもはや誰とも共有されることもない、その人が体験したと信じている一連の信念の塊に過ぎなかったが。記憶を頼りに何かを大切な人に伝えようと、何かを他人と共有しようと、それぞれによって実に多くの試みがなされた。花を与える人、他者に微笑みかける人、フクロウの真似をする人、沈黙、殺人、賛美、暴力、失踪、乱舞、描画、絶叫、銃声。考えられるありとあらゆる音と動作が、表現が世界にあふれる。もちろんどれだけ努力したかに関わらずその表現は行為者が期待したように受け取られることはなかった。それらがどのような思想のもとで行われたのかは誰も知らない。

 飽和した表現が収束するころ、すなわちそれだけの気力も保持できなくなったころ、天は直接ふれられるほどに落ちていた。天井になりさがってしまったそれは天候や時間帯によって温度や質感はまちまちであったが、興味を持ち、その様を観察する者は誰もいなかった。

 その後も空は大地へと落ちてゆき、人々は地面にはいつくばって時間をやり過ごした。


 あの黒猫のその大きな瞳は、空を映し、太陽も月も星もすべて飲み込んでしまった。わずかに生き残っていた人々はその時、その猫が瞼を動かした時が物事の終着点であったことを悟った。