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  冬の昼下がり、太陽の光を吸い込む柔らかい砂の上に、影のように黒い猫がいた。手足を丁寧に体の下にたたみこみ、全身の毛を逆立て微睡みの中にいる。
空からどろりとした手の平ほどの塊が落ちてきて逆立てた毛が静かにたわんだ。塊は無色透明で、ちょうど液体が蒸発するように少しずつ空気と混ざりながら消えた。猫はまるで気にせず伸びをする。ゆっくりとその毛にそって流れ落ちる何か。絶え間なくそれは降り続け、猫を濡らす。

 猫の近隣の人々に異変が生じたのは塊が人知れず降ってきた少し後だった。それは言葉の数の増加から始まった。つまりある特定の小さな集団ごとに語彙が多様化し、異なる集団間の会話はまるで出身が違う人々が方言で話すように、文意を取ることが難しくなっていった。同じ状況は近隣以外でも起こっているらしいと分かるころには、もはや他の土地の状況は異国の言語のような形で伝達された。
空も変化を始めた。天井知らずの高さであったはずの空が、どうやら地上に近づいていた。星や太陽はこれまでより大きく、より近くにあり、雲は低い山の頂上さえも覆い隠した。そのころには歩くだけで足に少し冷たい何かがまとわりつく感覚を覚え、どんなに晴れていても人々は傘を差して出歩くようになっていた。

 山々は空に押しつぶされた。人々が築いた天にそびえんとする建築群は空に突き刺さる。白い亀裂が縦横無尽に走りそこから粘性をもった液体が滴り続ける。もはやどこかを一望できるような視点は存在せず、太陽は毎日地上に光線を降らせ、軌跡は焦げ跡となって地上を横切る。月は空がつぶしきれなかった物体を踏み潰す。ただただすべてが平板化されていった。

 ついに人々は誰一人として誰とも意思疎通を行うことができなくなっていた。すべての人が異なる言葉を用いた。言語が、価値観が、生活様式が、文化が、社会的な行為として共有されていた意味が、すべて失われた。他人が何を考えているか、何を重要視しているのか、どのような倫理体系を持ち、数秒後に何をするか、予測することも推論することも不可能だった。各々の言語体系も時々刻々と変化していた。つまり、日記をつけたとしても翌日にはもはやそれは意味を為さず、語ること、考えること、行為することの一貫性は瓦解した。人々は哀れなことに言語が失われる前の記憶は持っていた。もっともそれはもはや誰とも共有されることもない、その人が体験したと信じている一連の信念の塊に過ぎなかったが。記憶を頼りに何かを大切な人に伝えようと、何かを他人と共有しようと、それぞれによって実に多くの試みがなされた。花を与える人、他者に微笑みかける人、フクロウの真似をする人、沈黙、殺人、賛美、暴力、失踪、乱舞、描画、絶叫、銃声。考えられるありとあらゆる音と動作が、表現が世界にあふれる。もちろんどれだけ努力したかに関わらずその表現は行為者が期待したように受け取られることはなかった。それらがどのような思想のもとで行われたのかは誰も知らない。

 飽和した表現が収束するころ、すなわちそれだけの気力も保持できなくなったころ、天は直接ふれられるほどに落ちていた。天井になりさがってしまったそれは天候や時間帯によって温度や質感はまちまちであったが、興味を持ち、その様を観察する者は誰もいなかった。

 その後も空は大地へと落ちてゆき、人々は地面にはいつくばって時間をやり過ごした。


 あの黒猫のその大きな瞳は、空を映し、太陽も月も星もすべて飲み込んでしまった。わずかに生き残っていた人々はその時、その猫が瞼を動かした時が物事の終着点であったことを悟った。